【レポート】時代の風景に温かさ ―手描き地図の職人宮坂和人先生の歩む道―
2022年6月14日 14時20分時代の風景に温かさ ―手描き地図の職人宮坂和人先生の歩む道―
生命地球環境研究群 地球科学学位プログラム 王 会一
立ち止まり、行きたい場所を電子マップで検索する。歩きながら、行く場所へのルートを画面上で確認する。いつの間にか、私たちは広い世界にある細かい街道のすべてを簡単に知ることができるようになった。これをもたらしたのは、コンピュータの出現とその広がりであった。かつて紙とペンで描き上げられた手描き地図は伝統的で保存価値のある単なる資料となり、非常に珍しくなりつつある。
そうした中、急速に変化する時代の波の中で歩く速度を落とし、筑波大学地理学研究グループの技官であり、「手描き地図の職人」である宮坂和人先生は、まだこのような素朴な作図に没頭している。なぜ手描き地図にこだわり続けるのか、どんな工夫があるのか。宮坂先生の職人技の魅力に迫った。
温かさを伝える~なぜ手描き地図なのか
コンピータで作る地図と手で描く地図はどこか違うのか?宮坂先生に問うと、「温かさ」という答えが返ってきた。
早速先生に同じ地域とテーマを表現するコンピュータ地図と手描き地図をそれぞれ1枚見せていただいたが、一瞥して手描き地図も印刷されたように描かれ、両者に大きな違いを発見できなかった。さらに読み比べたところ、黒白のモノトーンであっても記号を重ねることによる色の濃淡があり、情報量の多い場所がより重点的に表現される分、手描き地図の方が製図者の工夫が一目瞭然で、鮮明な彩色のコンピュータ地図に太刀打ちできるように思われた。
つまり、描き地図の製図者は自分の手で思いを込め、地図という作品で様々なコンセプトを読者に伝えられるうえ、読者の方も、情報だけでなく、一枚一枚の地図で微妙に異なる線の引き方や記号のデザインから、何か深層的な理解を得られるのではないだろうか。
コンピュータ地図と違い、手描き地図は伝えるものを創造する中で微妙な差異が出やすい。たとえば、空気の湿度により紙が丸まったり縮んだりして画図のずれが出ることがある。これを防ぐため、宮坂先生の工房では、いつも加湿器が稼働している。できる限りの対策をしている現場だが、万が一インクの染みや濃淡が生じた場合も、それは地図に人間味をもたせ、作図の現場を思い起こさせるような「面白い」変数ではないだろうか。
このように完璧な地図の作成をめざす中での工夫を紙に残すことが、手描き地図の「温かさ」であろう。この温かさあるからこそ、宮坂先生は大学時代から手描きを始め、40年を越えた今もこの仕事を続けているのである。
「真実」を記録する~何を描写するのか
コンピュータ地図が君臨する今の時代、手描き地図の需要は大きく減り、学術と教育が主な用途である。現在宮坂先生は、筑波大学の地域調査の中で実施される土地利用調査のための、長野県と茨城県を中心にした各地方の土地利用図の製図に主に力を注いでいる。学生の調査結果がより有意義になるように、調査研究の完成度をさらに高めるための手間を惜しまず地図を作成している。
こういった学術研究用の「作品」を一枚一枚よく見ると、地域それぞれの特質が浮き上がり、地理学における極めて重要なキーワードである「地域性」を視覚的に読み取ることができる。一筆一筆、細かいところまで丁寧に描き上げ、地域の特徴をなるべく直観的に表現するという、手描き職人ならではの技である(写真1)。
写真1 土地利用図を製図中の宮坂先生
例えば工場が多い地域の場合には、従来のような黒ベタの描き方では地図が暗く重い感じになる恐れがある。宮坂先生はこのようなことを予想しつつ、描く前に各部分のデザインを考える。工業用地に使われる記号の太線の太さを変えたり、太線と細線の間隔を変えたりすれば強いと同時に少し柔らかい表現にもなり、地図全体のバランスを取ることができる。製図者のセンスにもよる小さい調整であっても、読者の不快感を少しだけ軽減し、読み取る効率を上げることができるので、手描き地図は常に柔軟かつ適正な表現力で地図の世界に独自の価値を与えている。
唯一無二のその場所の様子を地図の向こうに伝えようとする宮坂先生は、私達が生きているこの時代の「真実」を記録しているのであろう。
手描き地図を守り続ける ~何ができるのか
1990年代までそれほど珍しくなかった手描き地図は、より効率的なコンピュータを使った製図に押され、もはや残された芸術のようだ。現在の日本で、表立って活躍している職人は、ほぼ宮坂先生一人しかいないという。
そして、手描きはデジタル化の恩恵を受けながら存続している。コンピュータで多様な操作ができる衛星画像などを含むビッグデータを使い、より正確な手描き地図が作れるようになっている。一方、手描き地図もデータベースの一部になりデジタルの世界に貢献しつつある。2019年には、筑波大学地理学研究グループが、宮坂先生の土地利用図をセレクトして高精細画像を作成し、解説文も収録した作品集を出版、ホームページも立ち上げ、大切な資料と作品を時空間を超えて残すことができた。
なお、手描きする際に出番の多い先生の道具もいくつか触らせていただいた(写真2)。図面を汚れずに平行線を引くときに使うハッチ定規や、円滑な曲線を描くときに使う回転烏口、平行した曲線を描くときに使う双頭回転烏口、インクでも消せる砂消しゴムと図面を傷つかずにゴムカスを掃除できる羽扇などの道具が先生の工房に納まっている。万年筆に見えるようなペン先を違う長さで削り、自分の需要に応じて異なる太さの線を引けるような道具を作ることもあるという。
写真2 宮坂先生の製図用の道具(一部)。
左上から時計回りに、双頭回転烏口・回転烏口、ハッチ定規、ゴムカス羽扇・砂消しゴム、普通のペン先・削ったペン先
みんなで地図に多様性を込められたら
緩やかな時間の流れの中で、宮坂先生は時代の風景を地図に描き、図面を介して私たちが生きている時代の多様性を温かく伝えようとしている。変わらぬものがある中で、変わりゆくものもあるという「不易流行」が宮坂先生の歩む道で見える風景であろう。
手描き地図の未来のため、よく多くの人が手描き地図を知るための入門書として、先生は浮田典良先生らの著書『地図表現ガイドブック』(ナカニシヤ出版発行)を紹介してくださった。この本を読めば、地図作成の原理からその応用まで理解できる。この先、興味関心のある人々が少しでも増えたら、昔のように手描き地図の同好者が集まり、にぎやかな鑑賞会を開催できるだろう。そんな場面を想像して、宮坂先生を始め、かつて手描き地図で仲間たちと地理学を学んでいた地理学の先生たちは涙ぐんでいるかもしれない。