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【レポート】アイヌ民族とシレトコ世界自然遺産の関わり ―アイヌ民族の権利紛争・エコツアーと結びつけ―

2024年1月25日 13時17分

人間総合科学研究群 世界遺産学学位プログラム M1 スウ イジョウ

 世界自然遺産は、①各国政府が世界自然遺産候補地域に関する暫定リストを作成する、②政府が詳細な推薦書を準備し、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産センターに提出する、③国際自然保護連合(IUCN)が推薦地域を評価し、必要に応じて現地調査を行う、④世界遺産委員会が各推薦地域を審議し、登録するかどうかを最終決定するというのが一般的な流れである(図1)。

 2005年、北海道東部に位置するシレトコ※は日本で3番目の世界自然遺産に登録された。昔のシレトコには、先住民族のアイヌ民族が住んでいた。しかし、当初シレトコを世界自然遺産候補地として国内で決定する過程において、アイヌ民族は全く関与できなかった。

 このことをインターネットで知り、筆者は「どうしてこういう状況になってしまったんだろう」、「今はどんな様子だろう」などいろいろな疑問を持った。

 そこで、2023年9月、当時の歴史に詳しく、『「新しいアイヌ学」 のすすめ 〔知里幸恵の夢をもとめて〕』の著者である小野有五先生(北海道大学名誉教授、2022年国際地理学連合「顕著な実践賞」受賞)にインタビューした。

※知床の呼び名はアイヌ語の「シリエトク」(「大地の・行きづまり」という意味)が語源である。小野先生がアイヌ語の地名を強調するためにカタカナを使うことに沿い、今回の文章でも「シレトコ」を使うこととする。

2023_最終版_図1_世界自然遺産に登録されるまでの流れ

図1. 世界自然遺産に登録されるまでの流れ

2023_最終版_図2_プロフィール画像(小野有五)

図2. 小野有五先生

 

行政とアイヌ民族の権利紛争

 アイヌ民族は、おおよそ17世紀から19世紀において東北地方北部から北海道、サハリン、千島列島に及ぶ広い範囲をアイヌモシリ(「人間の住む大地」という意味)として先住していた(北海道アイヌ協会)。いつからそこに住んでいたのかはよくわかっていないが、『アイヌ民俗誌』(アイヌ文化保存対策協議会編、第一法規)によると、昭和時代の斜里村には30戸数があり、114人が住んでいた。このことから、アイヌの人々は少なくとも近代においてもシレトコに住んでいたことがわかった。

 しかし、時代の変遷や和人(「アイヌから見た日本人」、三省堂国語辞典)につれ、アイヌの人々はシレトコでの本来の日常生活を送れなくなった。彼らは漁獲権を失い、アイヌ語を話すことも禁じられ、さらに強制移住も要求された。こうしたことはシレトコだけではなく、他のアイヌの人々の所在地でも起こった。その結果、アイヌの人たちのアイデンティティに変化が生じた。平成29年(2017年)の「北海道アイヌ生活実態調査」(北海道環境生活部)によると、「アイヌとしていやだと感じる点は何ですか」という質問項目に対して、最も多い答えは「特にない」(578人中の305人、52.8%)で、続いて多いのが「アイヌ差別の経験」(同171人、29.6%)、「生活基準」(同160人、27.7%)である。また、小内・長田の「アイヌとしてのアイデンティティの形成と変容」(北海道アイヌ民族生活実態調査報告: Ainu Report ,2012)によると、アイヌであることに対する意識に関して、「否定的」と「どちらでもない」を選んだ人は6.3%と53.6%であり、半分を超えている。これらのことから、現代社会においてアイヌ民族の多くの人たちがアイヌとして生きていくと認めず、自らのアイデンティティを捨てて和人の身分として生活を続けている。

2023_最終版_図3_「アイヌ生活実態調査」(北海道環境生活部、2017年)の質問項目に対する回答の割合

図3. 「アイヌ生活実態調査」(北海道環境生活部、2017年)の
質問項目に対する回答の割合

 こうした背景に基づき、シレトコが世界自然遺産候補地になったときに、日本政府は「シレトコには常住するアイヌ民族がいない」ことを理由として、アイヌ民族についてシレトコの管理計画書や推薦書に言及しなかった。

 これについて、小野先生は「政府がアイヌ民族に言及しなかった理由を探すことよりも、アイヌ民族が常住していないという社会問題を起こした原因を考えた方がいいのではないか」と指摘する。

 その一方、アイヌ民族は、自分たちの存在に言及することなくシレトコが世界自然遺産に登録されたことを知った後、権利回復を目的とする運動や交渉も図った。例えば、アイヌ民族のNPOが主導した「少数民族懇談会」や「エテケカンパの会」、「ウハノッカの会」などの活動である。やがて、アイヌの人々の努力によって2005年にIUCNが発表した「World Heritage Evaluation Report」では「先住民族の参加」が言及された。しかし、現実はそう甘くはなく、知床とアイヌの人々との間にはいまだに多くの問題があり、その根源には、「代表性(全てのアイヌ民族の人々の中に一人あるいは一団体のアイヌ代表を選抜する)をアイヌ民族に押し付けることなど、政府とアイヌの人々との間の対立や矛盾がある」と小野先生は語る。

 

シレトコ・アイヌエコツアーの昔と現在

 先述したように、アイヌ民族は彼ら自身の努力で管理計画に関与できるようになり、その第一歩として、アイヌ民族と世界遺産と関連づけ、アイヌエコツアーを実施した。シレトコ・アイヌエコツアーの主旨は、「アイヌ民族としての経済的な自立」、「若い世代の雇用確保」と「文化の伝承」の三つである。こういう目標に基づき、アイヌがガイドする、アイヌ民族の自然資源の利用や文化の伝達が構想された。

 このエコツアーを実施していたSHINRAの公式ウェブサイト(2023年11月閲覧)によると、シレトコ・アイヌエコツアーは二つのプログラムがある。一つ目は「アイヌ民族と歩く知床の自然」、もう一つは「聖地巡礼」、それぞれに書かれたハイライトを見てみると、内容的には当時構想した「自然利用」と「文化」の伝達は実現できたと言える。

 しかし、現在、シレトコ・アイヌエコツアーは中止となってしまった。その原因は、「唯一のアイヌのガイドさんとSHINRAのコーディネーターさんが辞めたからである」(小野先生)。他のアイヌ民族の人々を雇用するにも、「シレトコにはアイヌ民族の人が常住しておらず、居住地からは遠いので放置せざるを得なかった」とのことである。

 このように、シレトコ・アイヌエコツアーの中止に加え、世界自然遺産地域の管理協議会にも一人しか参加していないので、シレトコの管理へのアイヌ民族の関与は続けられなくなり、残ったのは、IUCNから得た勧告だけである。

 

アイヌ民族と世界遺産との結びつけ

 小野先生は東京で生まれ、東京教育大学(現・筑波大学)を卒業し、専門は地質学で、一番興味を持っていたのは氷河であった。

 では、小野先生はいつから、どのようなきっかけでアイヌ民族と世界遺産に関わるようになったのか? 今回のインタビュー調査を通してお聞きした。

 1986年頃、小野先生は、環境を守るための科学を志し、ちょうど北海道大学に環境科学を専門にする大学院が設置されたことで、そこに応募して採用された。そして、偶然本屋で知里幸恵さんが書いた「銀の雫」(草風館、1997年)を見つけて読み、アイヌ民族の文化のすごさを初めて知った。もう一つの大きなきっかけは、1997年の北海道旧土人保護法の廃止である。法律の廃止について、当時の小野先生はよいことだと思っていたが、実際は何も変わらないと気づき、地理学者として何ができるかを考えていた。その後、地名を表す標識には日本語が大きく書いてあり、アイヌ語は下に小さく説明があるだけ、これは差別だと、アイヌ語の地名と日本人が後で付けた漢字の地名を平等に表記させる運動を始めた。そして、この運動を通じて、いろいろなアイヌの人々と親しくなり、シレトコの世界遺産登録にも関わるようになった。

 

まとめ

 今回、小野先生に対するインタビュー調査を通し、最初に言及したシレトコの世界自然遺産登録の経緯に関する疑問が解けて、さらには知床とアイヌ民族の問題の複雑さと深刻さを十分に認識させられた。世界自然遺産と先住民族の問題を解決するためには、「行政側と先住民族側の合意形成」がとても重要だと考えられる。「行政側と先住民族側の合意形成」ができれば、世界自然遺産はより完全で魅力的なものになり、持続可能性にも寄与すると言えるであろう。