【レポート】世界自然遺産で生きる人びと
2019年5月22日 11時59分世界自然遺産で生きる人びと-昆布漁を通してわかった「知床の真髄」-
人間総合科学研究科 世界文化遺産学専攻 船木大資
北海道の北東部、ロシアを臨むオホーツク海と根室海峡に突き出し、その一部が2005年に世界自然遺産に登録された知床半島。ヒグマが海岸線を闊歩し、オオワシが上空を舞うこの半島には、「手つかずの大自然」が残っている、と表現されることもある。
その一方で知床は、古くから漁業の町として栄え、活発な人の営みが続けられてきた場所でもある。ある研究者は、雄大な自然とともに断続的に昆布番屋やサケ番屋が建ち並ぶ海岸部の風景を「歴史的自然」と称し、「荒々しい自然のなかに人の生活が垣間見られるところこそ、知床の真髄」と評しているほどだ。
昨年度筆者は2か月半にわたって羅臼町の昆布番屋でアルバイトとして昆布漁師たちと寝食を供にし、昆布漁に携わってきた。この記事では、そうした経験から垣間見えた「知床の真髄」を紹介する。
北海道の北東部に位置する知床半島。
https://maps.gsi.go.jp/#7/43.532620/144.475708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
羅臼町のソウル漁業、昆布漁
羅臼町の名産品「羅臼昆布」を生産する昆布漁は「羅臼町のアイデンティティ」「羅臼町のソウル漁業」とも言われている。筆者が携わった「天然昆布漁」は7月中旬頃に開始され、羅臼町の沿岸部全域でおこなわれる。家族操業であり、昆布場ではたらく人たちは、昆布採りや乾燥作業のほかに「しめり」「巻き」「のし」「日入れ」「ひれ刈り」などさまざまな工程に携わるが、その間は住居兼作業小屋である「番屋」と呼ばれる建物に住み込んで作業に没頭する。
昆布の天日干しの光景。
「ゆるくない」昆布場での生活
昆布場ではたらく人たちの朝は早い。4時ごろには起床し、早速昆布のしわを伸ばすための「巻き」や「のし」などの作業を開始する。漁師は朝5時に出港し、操業開始時刻の6時から昼頃まで昆布採取に没頭する。その間も陸廻り(おかまわり)と呼ばれる人々は黙々と作業を継続する。昼頃漁師が昆布を船に満載して帰ってきたら、そこからは総動員で昆布を乾燥させる作業だ。昼食をとってしばし休憩した後、気象条件が整えば、昆布を巻きやすくするために一度乾燥させた昆布をもう一度湿らせる「しめり」を実施する。「しめりをとる」ためにハマに並べた昆布の様子をうかがいながら、引き続き別の作業を続け、順調にいけば夕食の前後には昆布を室内に取り込む。一日の作業を終えたら、家族でひと時の団らんの時間があるが、20時頃には明日に備えて就寝する。昆布場の一日はこのようにして過ぎ、筆者が滞在した番屋では、こうした生活が2か月にも渡って続けられた。
昆布の生産は気象条件に委ねられているため、人びとは自然の変化に生活を適応させなくてはならない。たとえば、上述したしめり。実施するのに適した条件が存在するため、天候次第では深夜の1時頃から行う場合もある。同様に日入れも朝からよく晴れた日でなくては実施することはできない。日々変化する海中の昆布の状態に合わせて昆布採りの方法も変更する。
一方、知床は世界有数のヒグマの生息地である。ヒグマは時折昆布場まで降りて来ることもあり、知床の住人たちは、彼らと上手に折り合いをつけて生きていかなくてはならない。筆者がお世話になった漁師の「自然と暮らすって本当にゆるくない(易しくない)ことなんだよ」という言葉からも、その苦労の一端が伺える。
昆布を巻く筆者。今は機械による「巻き」の作業が主流である。悪天候が続くと室内作業が延々と続けられる。
試行錯誤を重ねた羅臼昆布漁の100年
今日、羅臼町の昆布漁家のほとんどは道路のある場所に番屋を構え昆布漁を営んでいる。しかし、かつては自然の恩恵を最大限に受けるため、世界遺産の核心部とも言われている知床半島の先端部に船で移住し、夏の間そこで生活する漁家も多かった。船外機や機械乾燥の普及により、現在ではこうした移住はほとんど行われなくなったが、昭和40年代は市街地から最も遠い「赤岩地区」であっても、500人以上が移住し、活気にあふれた場所であったと伝えられている。
羅臼町の昆布漁は100年以上の歴史を有している。明治40年頃には女性や子どもの職業であるとして地位が低かった昆布採取だが、次第に多くの漁家が携わるようになり、昭和15年頃には羅臼町の漁業の生産高の半分を占めるほどに成長した。一方で、昆布漁師たちは資源量の維持と安定した生産のための取り組みを継続してきた。昆布礁を人工的に作る取り組みや、厳格な規則の設定、さらに養殖試験の実施や機械乾燥の導入のための試行錯誤に励んできた。こうした取り組みは一定の成果を収め、今日に至っている。羅臼町の昆布漁師たちはこの100年の間にさまざまな問題に直面し、その度に試行錯誤を重ねることによって自然とともに生きてきたのである。
世界自然遺産に登録された知床の自然が、人類の遺産として貴重で価値あるものであることは間違いないであろう。しかしその世界に誇る自然だけが知床のすべてではないはずだ。一方には昆布漁のような、そうした自然と分かちがたく結びついた人々の営みが古くから存在し、今日もなお息づいている。こうした人々の営みもまた知床を語るうえで欠くことの出来ないものである。知床の人と自然、この両者に触れてはじめて私たちは「知床の真髄」に接近できたと言えるだろう。
北海道の北東部に位置する知床半島。
https://maps.gsi.go.jp/#7/43.532620/144.475708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
羅臼町のソウル漁業、昆布漁
羅臼町の名産品「羅臼昆布」を生産する昆布漁は「羅臼町のアイデンティティ」「羅臼町のソウル漁業」とも言われている。筆者が携わった「天然昆布漁」は7月中旬頃に開始され、羅臼町の沿岸部全域でおこなわれる。家族操業であり、昆布場ではたらく人たちは、昆布採りや乾燥作業のほかに「しめり」「巻き」「のし」「日入れ」「ひれ刈り」などさまざまな工程に携わるが、その間は住居兼作業小屋である「番屋」と呼ばれる建物に住み込んで作業に没頭する。
昆布の天日干しの光景。
「ゆるくない」昆布場での生活
昆布場ではたらく人たちの朝は早い。4時ごろには起床し、早速昆布のしわを伸ばすための「巻き」や「のし」などの作業を開始する。漁師は朝5時に出港し、操業開始時刻の6時から昼頃まで昆布採取に没頭する。その間も陸廻り(おかまわり)と呼ばれる人々は黙々と作業を継続する。昼頃漁師が昆布を船に満載して帰ってきたら、そこからは総動員で昆布を乾燥させる作業だ。昼食をとってしばし休憩した後、気象条件が整えば、昆布を巻きやすくするために一度乾燥させた昆布をもう一度湿らせる「しめり」を実施する。「しめりをとる」ためにハマに並べた昆布の様子をうかがいながら、引き続き別の作業を続け、順調にいけば夕食の前後には昆布を室内に取り込む。一日の作業を終えたら、家族でひと時の団らんの時間があるが、20時頃には明日に備えて就寝する。昆布場の一日はこのようにして過ぎ、筆者が滞在した番屋では、こうした生活が2か月にも渡って続けられた。
昆布の生産は気象条件に委ねられているため、人びとは自然の変化に生活を適応させなくてはならない。たとえば、上述したしめり。実施するのに適した条件が存在するため、天候次第では深夜の1時頃から行う場合もある。同様に日入れも朝からよく晴れた日でなくては実施することはできない。日々変化する海中の昆布の状態に合わせて昆布採りの方法も変更する。
一方、知床は世界有数のヒグマの生息地である。ヒグマは時折昆布場まで降りて来ることもあり、知床の住人たちは、彼らと上手に折り合いをつけて生きていかなくてはならない。筆者がお世話になった漁師の「自然と暮らすって本当にゆるくない(易しくない)ことなんだよ」という言葉からも、その苦労の一端が伺える。
昆布を巻く筆者。今は機械による「巻き」の作業が主流である。悪天候が続くと室内作業が延々と続けられる。
試行錯誤を重ねた羅臼昆布漁の100年
今日、羅臼町の昆布漁家のほとんどは道路のある場所に番屋を構え昆布漁を営んでいる。しかし、かつては自然の恩恵を最大限に受けるため、世界遺産の核心部とも言われている知床半島の先端部に船で移住し、夏の間そこで生活する漁家も多かった。船外機や機械乾燥の普及により、現在ではこうした移住はほとんど行われなくなったが、昭和40年代は市街地から最も遠い「赤岩地区」であっても、500人以上が移住し、活気にあふれた場所であったと伝えられている。
かつて多くの人々が移住した赤岩地区。現在は朽ち果ててしまった番屋も多い。
ハマに現れたヒグマ。目の前を通り過ぎていく間、漁師たちはじっとその様子を見つめていた。